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【連載:ちえシェアの現場から】戦争孤児からIBMエンジニアへ──諦めなかった少年が見た未来<後編>

満州での戦争、家族との別れ、そして孤独な引揚げ。
飢えと悲しみ、絶望のなかを歩き続けた少年は、やがて日本IBMのエンジニアとして新しい時代を生きました。

前編では、戦火の中を生き抜いた幼少期をたどりました。
後編では、過酷な体験を抱えたまま日本で再び歩き出した柴原喬さんの“その後”を追います。

▼前編はこちら
https://media.okwave.jp/c214/p263072/

柴原さんの語りは、Dress aging合同会社が主催するイベント「ちえシェア」で行われたものです。
ちえシェアは、人生を重ねてきた人々の経験を、今を生きる私たちへとつなぐ場。
過酷な体験を越え、希望をつかんだ一人の男性の言葉には、時代を越えて響く“生きる知恵”がありました。

▼ちえシェアイベント詳細はこちら
戦後80年。戦争体験を未来へつなぐ──Dress agingが挑む「人生のちえ」の循環 | OKWAVEメディア,OKWAVE media

 

帰国。そして父の死

帰国から3年後の昭和24年、父がシベリアから帰還し、久しぶりに再会を果たしました。
「記憶の中では精悍な印象だった父ですが、再会したときは腫れ上がり、疲れているように見えました」。

その日から、父、継母、弟との共同生活が始まります。栄養も十分に取れない生活でしたが、家族と過ごすうちに、ようやく落ち着きを取り戻しました。喬さんも小学校6年生に進み、成長期を迎えます。気力や体力が湧き、自信を持てるようになっていきました。

大阪の都島工業高校を卒業し、和歌山大学へ進学。学業に励み、活力あふれる毎日を送っていた矢先、再び悲劇が訪れます。
就職先で働いていた父が、井戸掘削中の事故で命を落としたのです。

「その日、梅田の本屋にいた私の心臓が突然ドンと鳴って、何か不吉な予感がしたんです。あとで父が亡くなった時刻とまったく同じだったと知りました」。

突然、家族の支えを失い、弟たちを養うため、喬さんは大学を除籍。父が働いていた三栄鉄鋼株式会社に就職し、昼は働き、夜は電気通信大学夜間部で学ぶという生活に変わりました。

「父の殉職は語るに堪えないできごとでした。ですが、私が就職したことで住まい(社宅)と家族の生活が確保できました」。

 

日本IBMとの出会い

25歳になった喬さんは、もっと自分を活かせる職場を求めて転職を考えるようになります。そんなとき、友人から日本IBMの存在を知りました。「こんな勢いのある会社で働きたい」と思っていたところ、新聞に日本IBMの求人広告を見つけたのです。
それが喬さんの運命を変えました。

数百人の受験者が集まった大阪中央公会堂。受験者の多さにひるみそうになりましたが、「ここで人生を変えなければ、いつ変えるんだ!」と、背水の陣で挑んだ試験。

結果、合格者5名のうちのひとりに選ばれました。
「諦めない」という言葉が、再び現実を切り拓いた瞬間でした。

 

苦しみを越えて、人を思う力に

日本IBMでは、大阪営業所、八重洲営業所、野洲工場と転勤を重ね、カスタマーエンジニアとしてキャリアを築いていきました。平成9年に定年退職を迎えるまで、「特に人事管理面で高い評価を受けました。当時の椎名社長から表彰をいただいたことを今でも覚えています」と振り返ります。

「引き揚げのときに助けてくださった方や柴田青年の存在が、私の生き方に大きな影響を与えました。自然と、部下や仲間に思いやりを持って接していたのだと思います」。

戦時中、見知らぬ人々の優しさに救われた経験が「人を信じる力」となり、喬さんの働き方に深く息づいていました。

 

OB会の立ち上げ

定年退職後、喬さんは日本IBMのOB会「親鴨会」の立ち上げメンバーに加わります。戦時中に味わった孤独があったからこそ、仲間との時間をより尊く感じたのです。「せっかく出会った仲間と、これからの人生も一緒に豊かにしたい」。そんな思いから、現在は、OB会の2代目・野洲支部長を経て顧問を務めています。

さらに、地域の老人クラブにも参加。長年の貢献が認められ、表彰も受けました。もちろん今も現役で地域の人々をまとめる存在です。

戦後80年を経た今も、喬さんの心にはあの引揚げ体験が深く刻まれています。年月とともに、それは「感謝」や「仲間の大切さ」という形で熟成されていきました。喬さんの思いは周囲へと伝わり、笑い合える仲間との時間を作り出しているのです。

 

自らを語る意味

長い間、喬さんは戦争体験を語ることはありませんでした。しかし、娘の由美子さん(Dress aging合同会社代表)に促され、ついに「ちえシェア」で自分の体験を語る決意をします。

由美子さんはこう話します。
「父はずっと厳格で怖い存在でした。ですが、話を聞いて父の厳しさの理由がわかりました。あれは、諦める私への叱咤だったんですよね」。

語ることは、家族の絆を取り戻すきっかけにもなりました。話すことで過去が意味を持ち、聞くことで聞き手の中にも変化が生まれる。その変化が語り手への優しさとして還ってくる――。ちえシェアでの語りには、登壇者と参加者の間にそんな相乗効果が生まれていました。

 

世代を超えて伝わる言葉

イベントには幅広い世代が参加しました。

大学2年生の参加者はこう語ります。
「ここまで強烈な戦争体験を当事者から聞いたのは初めてでした。時間が経つにつれてこのお話が自分の中で熟成され、生きる力になっていくのだろうと思います」。

別の参加者もこう残しました。
「私は今22歳で、直接戦争体験をお伺いできる最後の世代なのではないかと思います。戦争がもう“歴史上の出来事”になりつつある中で、調べて覚えるだけでなく、体感することが大切だと感じました。今はありがたいことに壮絶な経験で孤独を感じる機会は少ないですが、その分、人に支えられて生きているという実感も減っている気がします。改めて、人は一人では生きていけないのだと感じました」。

柴原さんの言葉は、世代を超えて静かに心へ届いていきました。

「発疹チフス、孤独、そして飢えで生きる希望を失いかけていたとき、柴田青年が声をかけてくれた。発疹チフスからの回復も、亡くなった祖父が命をくれたのだと思っています。そんな経験が、私のその後の人生に大きな影響を与えてくれました」。

壮絶な体験は、ともすれば人生に影を落とします。しかし、柴原さんはその中でも明るい一筋の光を探し続けました。

「人生にはつらいこともあります。でも、諦めないでください。諦めない、負けないという精神がきっとその先の人生で活かされるときがきます。諦めなければ、誰かが手を差し伸べてくれる――その人の存在を信じてください」。

88歳の柴原さんは笑顔でそう語ります。

戦争という極限を生き抜いた少年が見た未来は、“人は助け合って生きる”という、当たり前だけれど尊い真理でした。

悲しみの奥から見つけた希望。
そのちえは、今日も誰かの心を照らしています。

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