ブロックチェーンで資本主義の「先」を実現する〜GFA株式会社・松田元社長インタビュー(中編)
前編の記事では、GFA株式会社の松田社長にWeb3.0とブロックチェーンを活用したこれからのビジネスのことについてお話をうかがいました。中編の本記事では、新しい技術と知識を活用して様々なビジネスを創り出し続けている松田社長の人物に迫ります。果たして松田社長は、どんな生い立ちを経てどのような経験をされて今に至るのでしょうか? そして、これからの将来にどんなビジョンを思い描いているのでしょうか。引き続きノンフィクション作家である小松成美が聞き手を務めます。
※本稿は三部編の中編です(前編はこちらをご覧ください)。
松田元(まつだ・げん)
実業家、投資家、レジリエンス経営研究者、教育者、作家。長崎県長崎市に本籍を有し、1984年、神奈川県鎌倉市で生まれる。早稲田大学商学部卒業。
在学中より学生ベンチャーを創業。そのほか、複数のベンチャー役員を兼任。卒業前にアズ株式会社を創業。2012年にアズグループホールディングス株式会社設立、代表取締役就任(現職)。2016年8月に株式会社創藝社代表取締役に就任(現職)。オウケイウェイヴ株式会社(3808)代表取締役社長、ビート・ホールディングス・リミテッド(9399)取締役会議長最高経営責任者を経て、GFA株式会社(8387)代表取締役社長(現職)。衆議院予算委員会「平成28年度の予算案審議のための公聴会」に公述人として出席したほか、著書も多数。
小松成美(こまつ・なるみ)
神奈川県横浜市生まれ。広告代理店、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。
主な作品に、『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』『中田語録』『イチロー・オン・イチロー』『勘三郎、荒ぶる』『YOSHIKI/佳樹』『横綱白鵬 試練の山を越えてはるかなる頂へ』『全身女優 森光子』『仁左衛門恋し』『五郎丸日記』『それってキセキ GReeeeNの物語』『虹色のチョーク』『M 愛すべき人がいて』『奇跡の椅子 AppleがHIROSHIMAに出会った日』などがある。現在、執筆活動をはじめ、講演活動やテレビ出演など多岐にわたり活躍中。
小松(以下略):
松田社長、前回はブロックチェーンとGFAのこれから目指すべきビジョンについて語って頂きました。非常に興味深いお話が多かったのですが、今回は人間・松田元にフォーカスを当ててお話を聞かせてください。
松田さんは20代で、ブロックチェーンという衝撃的な技術に出会い、未知の可能性を感じた瞬間、後先考えずにまるでいきなり直角に曲がるかのようにその世界に舵を切りましたね。周りの人は「あまりに急すぎる、もっと慎重に」と言ったと思うのですが、「思い立ったらすぐ行動」という気質は子どものころからお持ちだったのですか?
松田元(以下松田):
どうなんですかね(笑)。でも小さい頃からとにかく余計なことを考えずに興味のあることには一直線だったと思います。
--お生まれはどちらですか?
松田:
本籍は長崎で、鎌倉育ちです。父は銀行員で母は専業主婦の、いわゆるごく普通の家庭で生まれ育ちました。兄弟は3人います。
基本的に何不自由無く育ちましたし、幼いころはスキーによく連れてってもらっていました。しかし「バブル」が弾けた後、事態が大きく変わったんです。
確か小学校2、3年の頃だったと思うのですが、突然スキーに連れてってもらえなくなったのです。また、長崎に帰省する時も、飛行機でなくて車で2日かけて帰ったりしていました。子どもながら、なんか最近おかしいなと思っていたことを今でも覚えています。でも、当時の父は経済的に大変だったはずなのに何も言わず、家庭はいたって穏やかでした。
--バブル崩壊後の銀行は、さぞかし大変だったでしょうね。ところで松田さんは、子どもの頃はどんなことに興味があったのでしょう?
松田:
ゲームですね、テレビゲームです。ファミコン、スーパーファミコン、メガドライブ、ゲームギア、ゲームボーイ……ドラクエ、ファイナルファンタジー、マリオ……たぶん同世代で私より詳しい人はいないんじゃないかというぐらい、ゲームばかりやっていました。
一方で学校の勉強は退屈で「なんでこんなことやるんだろう?」とずっと思っていました。
--そこまでゲームが好きなら、ゲームクリエイターになろうと思わなかったのですか?
松田:
全く思いませんでした。幼少期から資本主義はお金がすべてだと思っていたので(笑)。小さい頃父の年収を聞いて、あんなに働いているのになんでそんなに低いんだろうと感じていました。会社に騙されているんじゃないか、とも思っていました。
--では、何になりたいと?
松田:
幼稚園の頃は、「高速道路の料金所のおじさん」になりたかったです。私はあの仕事が、高速道路を通る全ての車からお金をもらえる仕事だと思っていました。道路は個人のもので通行料をもらえるビジネスだと信じ込んでいました(笑)。ただ立っていれば、通り過ぎる車はお金を渡してくれるじゃないですか。こんなにいい仕事はないなと本気で思っていたんです。両親にそう告げると「よくそう考えたね」と褒めてくれました(笑)。
--確かにすごい発想ですね。そういう発想を思いつくということは勉強もできたんじゃないですか?
松田:
まあ勉強できたのですが、とにかくテストのための勉強が面倒で、テストのたびに友達に助けてもらったり、みんなでチームワークで乗り切ったりした感じです。初めは横浜の私立中学に進学したのですが、校則が厳しくて自由がなく、すぐ辞めてしまい、地元の中学へ行きました。地元の中学は友達がたくさんいたので楽しかったです。
--その後、高校へは無事に通えたのですか?
松田:
推薦で小田原の明徳学園 相洋高校という学校に進学したのですが、3日で退学してしまいました。
--やっぱり(笑)!
松田:
はい、私が通っていた高校は小田原駅から徒歩15分ぐらいなのですが、途中の坂がとてもきつくて、初日から「これは無理だ」と感じ、3日通って「やっぱり無理だ」とギブアップしました。すぐに担任に「退学します」告げたんですよ。
--高校を辞めた理由が「坂がきついから」とは(笑)。
松田:
15歳でフリーターになるのは、さすがに悪いと思って、退学した帰り道に近所の酒屋さんを訪れて、「学校を辞めるんですが、明日からここで働かせてもらえませんか?」と頼んだんです。するとすぐに「いいよ」と言っていただけて。早速家に帰って両親に「学校辞めて明日から酒屋で働く」と宣言しました。
--ご両親は驚かれたのではないですか?
松田:
父は普段全然怒らない人なのですが、その時ばかりは「高校中退はダメだ、6月まで籍だけは残しておくから、戻りたくなったら戻れ」と言われました。でも結局、戻らずに毎日酒屋で働きました。稼いだお金で同じく高校を辞めた地元の連中と遊んで過ごしていました。
--その後松田さんは渡米しますよね。きっかけがあったんですか?
松田:
そうやって地元の友達とフラフラとしていた時に「このままだと世の中を知らないバカになる」と思い、東京へ出たんです。そして、16歳で大学入学資格検定を受け、合格しました。大学受験まで1年半あったので飛び級できる学校はないかなと探していた時に、大下英治さんが書いた『孫正義 起業の若き獅子」という孫正義さんの人生を綴った本と出会い、アメリカに行こうと決心したんです。
--松田さんをアメリカ留学させたのは、孫正義さんだったのですね(笑)。
松田:
高校を辞めて地元で遊び回っていた私は、酒屋の他にも、夏休みになるとお祭りの夜の出店でリンゴ飴やカキ氷を売るアルバイトも経験し、世の中で金を稼ぐなら、優秀な経営者になるしかないな、と感じていたんです。優秀とはつまり、稼ぎをあげること。お祭りや縁日の出店の仕事は、たとえば焼きそばなんて原価が10円程度なのに500円で売れるわけです。現金がどんどん入ってくる。私は実証主義でしたから、テキヤの人たちの現金収入に痺れて、「この世界に入ってもっと稼ごう」と思い立ち、出店を仕切っている大人たちに「僕も自分の店を出したい」と頼んでみました。ですが、その大人たちは「お前はこの世界には来るな」ときっぱり断られました。
--その方たちの助言に耳を傾けたのですね。
松田:
はい、そうなんですよ。その時、立ち入っては行けない世界があることに気付かされました。そして同じ頃、自分の生き方を見つめ直す出来事にも遭遇するんです。一つ上の仲の良かった先輩が、ノーヘルでバイクに乗って事故を起こし、亡くなってしまったんですよ。その先輩は、私が高校を辞めた時に将来を心配してくれた人でした。夏祭りの出店のバイトの時に喧嘩をしたのですが、祭が終わって仲直りした直後、バイクで道路脇に突っ込む自損事故を起こし、植物人間になってしまいました。その後、意識を戻すことなく数ヶ月後には亡くなりました。
先輩が亡くなっても、地元の仲間たちは相変わらずノーヘルでバイクに乗って走り回っている。私はその光景を見て「このままここにいてはダメだ。俺も同じことをしていたら先輩のように死ぬな」と感じ、地元を離れる決意をしたんです。
--16歳で東京に出るとなると生活費は仕送りですか?
松田:
いえ、家賃4万4000円のアパートを見つけて契約し、月10万円稼げる居酒屋のアルバイトを探して働きました。
そして、間も無く孫正義さんの人生を本で読み、渡米しようと決意したんです。そのためには資金が必要だったので、猛烈に働きました。東京の分倍河原の駅前にあるマクドナルドで朝5時からアルバイトをして、その後は小平市の給食センターへ。そこで8時間労働しました。巨大な調理器具を使って、一日4000個のキャベツを切ったり、コロッケは8000個揚げていたりしましたね。こちらも巨大な食洗機に入れるのですが、洗う皿は一日12000枚です。皿洗いは、お皿を300枚並べた巨大なカートを食洗器に入れます。それを40回やるんです。これだけでも2時間くらいかかります。そうやって働いて、3ヶ月で約40万円をため、そのお金でカリフォルニアへ行きました。
アメリカでは語学学校に行ってから大学を目指そうと思ったのですが、その頃は英語が全然駄目で、資金も底をついたので、アメリカの大学には行かずに帰国しました。
--帰国後はどうされたのですか?
松田:
大学に進学しようと最初は東京大学を目指したのですが、5科目のセンター試験には間に合わないと判断して、早稲田大学を目指し合格しました。
不思議なんですが、予備校に通っている間に英文問題を解いていたら急に英語が喋れるようになったんですよ。会話の心配がなくなったので、早稲田に入学後、2年生の時に再び海外へ出ました。今度は東南アジアへの放浪の旅です。マレーシア、シンガポール、タイ、ラオス、ミャンマー、カンボジア、ベトナムを2ヶ月掛けて1人で回りました。日本やアメリカと全く違った熱気を東南アジアで感じて帰国したのですが、あの旅こそ、私の世界を広げてくれたと思っています。
--そして早稲田に在籍しながら、会社を立ち上げられるのですよね。
松田:
はい、20歳の時に会社を作りました。他の会社ではなかなか採用されないフリーターや、昼間も働きたいと思っている接客業の女性の方にも声をかけ、どんどん採用して、プロのテレアポ・セールスパーソンに育成し、大企業の電話営業を請け負いました。この会社がとてもうまくいきました。
--電話営業全盛期の時代ですね。そのビジネスが当たるとわかったきっかけはあるのでしょうか?
松田:
最初は自分で飛び込み営業を行い、1日7社、合計2,000社ぐらい回ったのですが、なかなかうまくいかずとても疲弊したんです。でもその経験を通して、営業で物やサービスが売れるか否かは、事前の情報次第だということに気づきました。電話でしっかりスクリーニングしてから訪問をすれば、契約が取れることが分かったんです。しかも電話はコスト的にも安い。そこで、私が電話営業の完全マニュアルを作り、フリーターに電話をかけてもらう、というシステムを導入しました。
ピアスやタトゥーを入れたりして、見た目は不良っぽい若者が礼儀正しく「〇〇社の□□と申します」なんて誰でも知っている大企業の名前で電話営業をするんですよ。
--すごいアイデアですね。採用したたくさんのフリーターさんはバイト契約ですか?
松田:
いえ、アルバイトにはしませんでした。全員業務委託契約にして、独立事業主扱いとして雇ったんです。事務所は神楽坂と飯田橋にあったのですが、そこで100人もの方が働いてくれていました。その事業は他の方に委譲したのですが、会社自体は今でもあり、ビジネスは順調に続いています。
--それが松田さんの起業の第一歩ということですね。当時、上場を目指さなかったのですか?
松田:
当時ベンチャーキャピタルからも「IPOしませんか」という打診があったりして、IPOをするかしないかを検討したこともありましたが、結局行いませんでした。そのかわりに自己資金でいろいろな会社をM&Aしましたよ。ダイニングバーや焼肉店、マッサージサロンやウェブ制作会社、システム会社、ゲーム会社など様々な業種の企業をM&Aしましたが、取得した株式の一部を売却して資金が入るとまた投資するということを繰り返しまして、26歳の頃には株式投資や為替もやるようになりました。この運用がうまくいって資産が倍々で増えるようになりました。
--子供の頃からの夢が叶ったのですね。
松田:
まだまだ駆け出しの起業家でしたが、稼ぐことの実感は持てるようになりました。実業に邁進し、投資や為替の知識を得て30歳を迎えると、その頃から財務省や日銀のキャリアの方などとも交流が生まれていくんですよ。
--それはどのような経緯で?
松田:
当時、親しくしていたのが日本維新の会の松浪健太さんです。31歳(2015年)の時、教員を務めていた大学の理事の方に請われ、狭山市長選に出馬したのですが、その選挙を機に維新の会の方々と話をする機会を持ちました。するとそのお一人だった松浪さんが、日銀や財務局の方を次々に紹介してくださったんです。
この頃私は、金融ディーラーの仕事にも就いていたので、かなり綿密に海外情勢の分析していました。ブレグジット(イギリスのEU離脱)が囁かれていた時に、官僚から「松田さんどう思う?」と聞かれ私は「絶対に離脱する」と即答しました。その頃得ていた情報からイギリスの離脱は間違いないとわかったんです。実際にイギリスがEUを離脱すると、そのことを言い当てたことを聞きつけた日銀の関係者から連絡が入り、日銀の政策に助言するように頼まれることもありました。2016年2月には、衆議院予算委員会の中央公聴会で、日銀の金融政策に関する意見を最年少公述人として述べました。
--衆議院予算委員会での松田さんの答弁は、大きなニュースになりましたね。少々時間は遡りますが、松田さんは電話営業の会社を軌道に乗せた後、大学の先生もやられましたよね。
松田:
はい。2012年には九州大学で非常勤講師を、2013年には武蔵野学院大学SMB研究所の所長を行ったりしていました。また、母校の早稲田大学でも、恩師と共に起業家育成プログラム(edgeプログラム)を立ち上げるなどしながら講師をしていました。
その頃はディーリングで年間5〜6億円ほど稼ぎつつ、大学の講師を行い、大学の授業では「フリーターを育てる」という背景を活かして、ビジネスコミュニケーションという講座を持っていたりもしました。
私は子どもの頃、テレビゲームが大好きだったとお話しましたが、電話営業の会社のマニュアルは、ロールプレイングゲームを元に作成したんです。電話1本かけるごとに経験値が溜まり、成果を出せばボーナスを出す。社内で「アズペリカ」という通貨を作って、貯めると武器(ツール)が買えて経験値が2倍になる、というように。そうするとみんな仕事が面白くなり、ゲームセンターに来ているような感覚で出社をしてくれるようになりました。彼らは営業マンとしてもどんどん実績を積んでいき、中には起業家になる人も現れたんです。
私自身も、人材育成の延長で、若い経営者のコミュニティーを作りました。
--そのコミュニティーはどのような活動をされたのでしょうか?
松田:
いろいろな経営者を講師として招き、講演していただきました。その講師の中には、私が将来社長を務めることになるOKWAVEの兼元謙任元社長などもいました。兼元さんは「感謝で世界を平和にする」と真面目に語っていて、最初はユニークな人だな、と思ったのですが、いつも真剣そのもの。その頃の私は、資本主義の真っ只中にありながら、「資本主義の延長線に幸福はない」と考え始めていたので、兼元さんの考えはとても刺さりました。
--最初に交流会へ兼元さんを招いたのは、OKWAVEが注目されていたからですか?
松田:
いえ、その交流会のテーマというのが「世の中にかっこいいお金持ちをつくる」だったんです。「お金持ち」というと多くの場合、高級外車や高級時計をひけらかすような品格に欠ける「キモい金持ち像」ばかりがクローズアップされます。でも、金融資本主義の世界ではそれが「お金持ち」です。これを覆すことはできません。だからお金儲けだけではない「新しい価値観を語れる経営者の場」を作ろうと考え、そのコミュニティーを立ち上げました。そんな流れで兼元さんに声をかけたのです。
--兼元さんとの出会いからOKWAVEにつながっていくのですね。
松田:
はい。私は2014年頃からデジタルデザインという上場企業の取締役を務めており、2017年まで就いていたのですが、その間も兼元さんからビジネスの相談を受けていました。当時、OKWAVEの時価総額が40億円程度で、メインの事業が伸び悩んでいたんです。どうすれば成長するかと考えていた時に、兼元さんが「松田さんICOって知ってる?」と聞いてきたので「もちろん知ってますし、OKWAVEは今やった方がいいですよ、絶対に」と答えたんです。「じゃあ松田さんやってよ」と兼元さんから言われ、それで手伝うことになったんです。
--ICOとはなんですか?
松田:
Initial Coin Offeringの略で、会社や組織が独自のトークン(仮想通貨・暗号資産)を発行して、投資家から資金を集める手法です。私は、2017年頃にはブロックチェーンに関する論文を読み込んでいたので、だいたい60%ぐらいは仕組みを理解していました。「これはいける!」と思ったので本格的にエンジニアを集めることになり、マレーシアのOBC(当時のOKWAVEの子会社)には、1ヶ月で100人の雇うことにしました。2017年10月には、仮想通貨事業をおこなうOKWAVEのマレーシアにある子会社OKfinc LTDを通じ、シンガポールでICO事業を立ち上げるWowooに出資するんです。
――松田さんにとってのブロックチェーンの時代の到来ですね。
松田:
その通りです。OKWAVEは、2016年に仮想通貨の取引所運営やブロックチェーンの製品開発を行う、大阪のテックビューロー株式会社にも出資をしたりもしていたのですが、これらの出資などを通じて、OKWAVEの既存事業に加え、暗号資産に関連したサービスやICOに関連するサービスを伸ばしていこうという戦略でした。
--なぜ松田さんはOKWAVEにおいてWeb3.0のビジネスを拡大しようと考えたのでしょう。
松田:
OKWAVEがやっていた事業とWeb3.0が、親和性が高いと感じたからです。OKWAVEの主たる事業はYahoo!知恵袋のようなQ&Aサービスで、誰かが疑問点を投げると、その分野に詳しい人が答えを投稿してくれるサービスなので、答えてくれた人には感謝のポイントがつく仕組みになっています。このポイントをトークン化すればもっと普及するんじゃないかと考えていました。当時兼元さんは「“ありがとう”が価値を持つ時代が来る」とおっしゃっていましたが、まさにそうで、OKWAVEがあのタイミングで暗号資産ビジネスに参入したのは必然だったと思っています。
--なるほど、そんな素晴らしいタイミングがあったのですね。さて、ここから松田さんはOKWAVEの代表取締役社長として活躍されるのですが、ここでも波乱万丈が起きます。
松田:
はい、確かに。想像もしない激動が待っていました。
(後編につづく)
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