若い頃にやっておけばよかった、は幻想かもしれない
後悔という感情の正体
「英語、もっと若い頃にやっておけばよかった」「あの頃に投資を始めていれば」「運動習慣をつけていれば」——このような言葉は、多くの人が一度は口にしたことがあるはずです。年齢を重ねるほど、この感覚は強くなっていきます。ところが、心理学の研究によれば、この「後悔」という感情は、思っているよりもずっと歪んだ見方で過去を映し出している可能性があります。
アメリカのベストセラー作家、ダニエル・ピンク氏は世界105カ国・1万6000人以上の「後悔」を集めて分析しました。その調査でわかったのは、人は「行動したこと」よりも「行動しなかったこと」に対する後悔のほうが、年を重ねるにつれて約2倍近く強くなるという事実です。つまり、「若い頃にやっておけばよかった」という気持ちは、実際に何かを失ったのではなく、「やらなかった」という選択そのものへの感情的な反応であることがほとんどなのです。
もう一つ注目したいのが、後悔の比較対象の問題です。私たちが「あの頃の自分」と今を比べるとき、実際には「完璧な過去の選択をした架空の自分」と向き合っているにすぎません。実在しない相手と比べているわけですから、勝てるはずがないのです。
脳は、年をとっても育ちつづける
「若い頃に始めれば良かった」という考えの裏には、若い脳のほうが優れているという思い込みがあります。しかし、脳の研究はその常識をひっくり返しつつあります。
心理学者のホーンとキャッテルの研究によれば、人間の知能には大きく2種類あります。一つが「流動性知能」で、新しいことを素早く覚えたり、パターンを瞬時に認識したりする能力です。これは20代前半にピークを迎え、その後は緩やかに低下します。一方、「結晶性知能」と呼ばれる知能があります。これは積み重ねた経験や知識をもとに発揮される、語彙力・理解力・判断力・コミュニケーション力などの力です。この結晶性知能は、60歳頃までじわじわと伸び続け、その後も70〜80代にかけてほとんど低下しません。
大企業のCEOの平均年齢が60歳前後に集中しているというデータがありますが、これは偶然ではないとも考えられます。意思決定や問題解決には、処理スピードよりも豊かな経験の積み重ねのほうが大切な場面が多いからです。仕事での集中力のピークが43歳、相手の表情を読む力のピークが48歳、新しい情報を学び理解する能力のピークが50歳、語彙力のピークが67歳頃というデータもあり、脳の能力はどれも同じ年齢にピークを迎えるわけではないでしょう。
「理想の過去」は、記憶が作り出した幻
後悔するとき、私たちが頭の中で参照する「あの頃の自分」は、記憶によって美化されたイメージである可能性がとても高いといえます。「もしあのときこうしていれば」という想像は、心理学で「反事実的思考」と呼ばれます。この思考自体は、過去の失敗から学ぶための自然な人間の働きです。ただ、問題は想像の中に「もうひとつの人生」を作り出し、現実の自分と比べることで、実際には存在しない損失を損失だと感じてしまう点にあります。
ダニエル・ピンク氏自身も「私は現在50代だが、30代ではこの本を書けなかった。後悔を深く掘り下げるだけの経験が、あの頃にはなかったからだ」と語っています。年齢を重ねてはじめて開く扉が、人生にはたしかに存在します。若さとはいつも、過ぎ去ったあとに輝いて見えるものかもしれません。
後悔を、前に進む燃料に変える
後悔という感情は、無視すればいいわけでも、ひたすら落ち込めばいいわけでもありません。大切なのは、後悔を「情報」として受け取ることです。「自分は本当は何をやりたかったのか」「何を大切にしていたのか」を教えてくれる、ヒントの束として活かすことができるでしょう。
「若い頃にやっておけばよかった」という言葉は、一見すると反省のように聞こえますが、その実態は「今すぐ始める」理由を先送りにするための言い訳になっていることも少なくないでしょう。過去のベストタイミングは、たしかにもう取り戻せません。しかし、今日というこの日は、これからの人生の中で最も若い一日でもあります。後悔を燃料にして今の自分を動かすこと——それが、「やっておけばよかった」という感情の、最も健全な使い方ではないでしょうか。
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