【トヨタ自動車創業史③】トヨタ生産方式の萌芽:豊田喜一郎、合理主義と現場主義の原点

 
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本記事は、ポッドキャスト番組「二番経営」の豊田喜一郎編の内容をベースに番組と違う角度のテーマの内容を記事化したものです。
 

 

トヨタ生産方式のルーツを探る

今回は、世界のものづくりを変革した「トヨタ生産方式」の原点となる考え方が、トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎の思想と行動の中にどのように息づいていたのかを探ってみたいと思います。

 

「なぜなぜ」を繰り返す精神

まず注目したいのは、喜一郎の「物を考えない人間が嫌い」という気質です。

喜一郎が豊田紡織に入社した当時、紡績工場では他社からやってきた技術者たちが「秘伝」として「標準方式」を守り、それに疑問を持つことを良しとしない風潮がありました。

しかし、喜一郎はこの盲信的な姿勢を嫌い、常に「なぜ」と問いかけ続けました。この姿勢は後のトヨタの伝統として残る「現地現物主義」につながっていきます。

標準やマニュアルに固執するのではなく、現場で実際に何が起きているかを確かめ、常に改善の余地を探る—この思想は、トヨタ生産方式の根幹をなす考え方です。

 

Just in Timeの誕生

1938年、拳母(ころも)工場(現在の愛知県豊田市トヨタ町)が新設されました。この工場設立にあたり、喜一郎は重要な方針を打ち出します。

「必要な時必要な分だけあれば良い」

これが後に「Just in Time」として知られるようになるトヨタ生産方式の核心です。

自動車製造では様々な部品と工程が必要で、当時は11の専門工場が稼働していました。各工場で在庫を抱え、不良品も出る—これでは無駄が生じます。

喜一郎はこの無駄を徹底的に排除するため、「必要な時必要な分だけ」という理念を提唱しました。これは単なるスローガンではなく、厚さ10センチものパンフレットを自ら作成し、講義をしながら展開するほど緻密に考え抜かれたものでした。

この理念を実現するために、彼は堂々58万坪という広大な土地に、量産専用の製造システムを構築しました。工場の配置や工程の流れに至るまで、無駄を徹底的に排除する設計思想が貫かれていたのです。

 

家系を超えた人材育成

トヨタ生産方式を語る上で忘れてはならないのが、喜一郎の部下や同僚たちの存在です。

特に注目すべきは、若き日の豊田英二の存在です。喜一郎のいとこであった英二は、23歳で豊田自動織機に入社し、のちに拳母工場の第二機械工場の責任者として「Just in Time」の実現に尽力しました。

また、戦争という困難な時代にあっても、喜一郎は将来を見据え、「戦後平和になれば紡織機械は輸出も内需も非常に忙しくなる。その時に備えて治具工具類や大物加工工具は監督官の目の届かぬところに防錆剤を塗って保管すること」という指示を出していました。

このように、物事の本質を見抜き、長期的な視点で判断する姿勢も、トヨタDNAとして受け継がれています。

 

大野耐一との出会い

トヨタ生産方式を体系化したとされる大野耐一は、戦中に中央紡績からトヨタ自動車工業に移籍してきました。

当時は戦時中で軍需中心となり民需が縮小したため、多くの紡織会社が合併し、最終的にトヨタ自動車工業に吸収されるということが起きていました。その中で大野耐一という優れた人材がトヨタに加わったのです。

大野耐一がトヨタ生産方式を確立させたのは、喜一郎が亡くなってから2年後の1954年のことでした。しかし、その基礎となる考え方は、間違いなく喜一郎の「Just in Time」の思想にあったと言えるでしょう。

 

完璧主義と品質へのこだわり

喜一郎の設計精度の高さを表すエピソードとして、輸出用の織機の開発があります。彼は現地の気温や湿度を調べ、木材の歪みまで計算して設計しました。その結果、作動の滑らかさが他とは全く違うレベルに達したと言われています。

この完璧主義と品質へのこだわりも、今日のトヨタのDNAに脈々と受け継がれています。

一方で、トヨタ自動車の初期の製品は故障が多く、喜一郎自身が顧客の元へ飛んでいって修理するというエピソードも残っています。この「誠実さ」と「顧客第一」の姿勢も、トヨタ生産方式の重要な要素です。

 

苦難から生まれた知恵

トヨタ生産方式は、決して順風満帆な環境で生まれたものではありません。

戦時中の資材不足、戦後の混乱、そして1950年の経営危機—このような困難な状況の中で、限られた資源を最大限に活用するために絞り出された知恵の結晶なのです。

1950年、喜一郎は豊田利三郎とともに経営責任を取って総辞職します。後任として石田退三が社長に就任し、トヨタの経営再建に当たりました。

石田は朝鮮戦争特需にも恵まれましたが、単にラッキーだったわけではありません。彼は「安易な増員をせず、配置転換しながら人手をやりくりし、無駄な増員もせずその分思い切った設備投資を行」いました。そして豊田英二に設備近代化計画を策定させ、投資を進めたのです。

この「無駄を省き、本質的な部分に投資する」という姿勢も、トヨタ生産方式の根幹をなす考え方です。

 

現代に息づくDNA

喜一郎が1952年に57歳の若さで急逝した後、彼の思想は豊田英二や大野耐一らによって引き継がれ、体系化されていきました。

1954年に大野耐一がトヨタ生産方式を確立させたと言われていますが、その土台には間違いなく喜一郎の思想があったのです。

「必要な時必要な分だけあれば良い」という喜一郎の言葉は、今日では「Just in Time」として世界中のものづくりの現場で実践されています。また、「なぜなぜ」を繰り返す現場主義の精神も、トヨタのDNAとして脈々と受け継がれています。

トヨタ生産方式は、単なる生産システムではなく、ものづくりに対する哲学であり、生き方でもあります。その源流をたどると、そこには豊田喜一郎という一人の技術者の情熱と知恵があったのです。


本記事はポッドキャスト番組「二番経営」をベースに執筆しています。さらに詳しい内容は是非ポッドキャストでお聴きください。

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著者:勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ取締役)

(株)オーツー・パートナーズ 取締役■Podcast「二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜」パーソナリティ■コンサルタント歴20年以上、管掌業務:経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング/広報等
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ビジネス・キャリア

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