生活の満足度は収入よりも「習慣の質」で決まるという研究の話
収入と幸福の関係――研究が示す「頭打ち」の現実
2010年、プリンストン大学のダニエル・カーネマン教授とアンガス・ディートン教授(いずれもノーベル経済学賞受賞者)が発表した研究は、世界に大きな波紋を呼びました。45万件以上の回答データを分析したところ、日々の感情的な幸福度は年収が上がるにつれて向上するものの、年収約7万5,000ドル(当時の日本円で約850万円)を超えたあたりから、その上昇がほぼ止まるという結果が得られたのです。
その後、ペンシルベニア大学のキリングスワース氏が約175万件のリアルタイムデータで「収入が高いほど幸福感も上昇し続ける」という修正案を出しましたが、両者が協力した共同研究では、最も不幸なグループにおいては年収約10万ドルで上昇が止まる一方、それ以外の大多数では収入に比例して幸福感が高まり続けるという、より複雑な全体像が明らかになっています。
日本でも同様の傾向が見られます。内閣府の「満足度・生活の質に関する調査」(2023年)によると、総合的な生活満足度の平均スコアは10点満点中5.79にとどまっており、所得・収入に「満足している」と答えた方はわずか31.4%、実に68%が何らかの不満を感じているという結果でした。収入への不満が根強いにもかかわらず、全体的な生活満足度が伸び悩む――この構図は、お金だけが幸福の鍵ではないことを示しているように思われます。
「地位財」の幸せが続かない理由
慶應義塾大学大学院の前野隆司教授は、20年以上にわたって「幸福学」を研究してきた日本の第一人者です。前野教授は、幸せには「長続きするもの」と「長続きしないもの」があると繰り返し強調されています。長続きしない幸せとは、地位やお金・モノなど、人と比べることで生まれる「地位財」による幸せです。年収が上がっても、すぐに新しい比較対象が生まれ、また「もっと欲しい」という感覚に戻ってしまうのは、多くの方が経験的に感じていることでしょう。
一方、長続きする幸せをもたらすのは「非地位財」――他者との比較とは無関係に得られる喜びや充実感です。自分の意志で行動する「自律性」、日々の活動に没頭し成長を感じる「エンゲージメント」、深いつながりのある人間関係、そして生きがいや社会への貢献感といったものがその代表例です。前野教授が提唱する幸せの4因子「やってみよう」「ありがとう」「なんとかなる」「ありのままに」は、いずれも習慣的な行動や思考パターンと深く結びついていると考えられます。
習慣が幸福度を底上げする――科学が証明した日常の力
250万人ものアメリカ人のデータを分析したクシュレブ氏らの2020年の研究では、主観的なウェルビーイングの高さが、運動・禁煙・バランスのとれた食事といった健康的な習慣と強く結びついていることが明らかになっています。しかも、その関係は双方向的です。運動をすると幸福感が高まり、幸福感が高い人はさらに運動をする傾向があるという好循環が確認されており、習慣と心の状態が互いに支え合っているといえます。
感謝の習慣についても同様で、「今日うまくいったこと」を日々書き留めるグループは、そうでないグループと比べてより多く運動をするようになり、身体的な不調も少なくなったという報告があります。わずか数分の記録が行動や健康状態まで連鎖的に変えていく効果は、決して小さくないでしょう。
また、生きがいや目的意識を持つ人は、そうでない人と比べて生活満足度が大幅に高いことが内閣府の調査でも示されています。生きがいがある人の平均スコアは6.19点であるのに対し、生きがいがないと答えた人は4.55点と、1.6点以上の差がありました。目的意識は生まれついての才能ではなく、日々の習慣や行動の中から育てていけるものだと思われます。
今日から始められる「習慣の再設計」
ここまでの研究を整理すると、共通して浮かび上がる視点があります。生活満足度を継続的に高めるのは、収入の増減という外的要因ではなく、日々の行動パターン――つまり習慣の質ではないかということです。大きな昇給が一時的な喜びをもたらすことはあっても、それが数ヶ月で「新しい普通」として慣れてしまうことは、心理学でいう「快楽適応」のメカニズムとして広く知られています。
一方で、習慣は着実に積み上がります。毎朝30分の軽い運動、寝る前の感謝日記3行、週に一度の誰かとの深い対話――こうした行動は、それ自体が劇的な変化をもたらさなくても、継続することで脳の報酬系や自律神経系に働きかけ、じわじわと日常の基準値を引き上げていくことが見込まれます。
キリングスワース氏の研究では、収入と幸福感の関係において最も強い説明変数となったのは「人生をどの程度コントロールできていると感じているか」という自律感であり、その相関はなんと74%に達しています。毎日の習慣を意識的に選ぶという行為そのものが、この「人生を自分でコントロールしている」という感覚を育てていくと考えられます。
収入を高めることと、良質な習慣を積み上げることは矛盾しません。ただ、どちらか一方にしか投資できないとしたら――研究の蓄積は、そっと後者を指し示しているのではないでしょうか。
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