科学と社会の判断のあいだに生まれてしまう埋まらない溝の正体とは

気候変動でもワクチンでも遺伝子組み換え作物でも、専門家の意見が九割以上で一致していることは珍しくありません。気候変動に関しては、人間の活動が温暖化の主な原因であるという点で九割を超える科学者が同意しているという調査結果が繰り返し報告されています。それでも一般の人たちの受け止め方は大きく割れたままで、専門家の合意がそのまま世論に反映されることは少ないようです。情報が足りないからでも、誰かが説明を怠っているからでもなく、科学と社会の判断のあいだに、もっと根っこの部分でズレがあると考えられます。

 

確率で語る科学と、白黒つけたい社会

科学という営みは、もともと「今のところ最も確からしい」という前提のもとで結論を出す仕組みです。新しいデータが出れば結論が更新されるのは当然で、その更新可能性こそが科学の強みでもあります。ところが規制や政策の現場では、最終的に「安全か危険か」「許可するか禁止するか」という二択を迫られます。

遺伝子組み換え食品の安全性審査では、研究データに残る不確実性を抱えたまま、最終的には許可・不許可という二つに一つの判断へと圧縮する作業が行われています。この過程で、科学が本来持っていたグラデーションのある説明は失われがちで、市民の前に届くのは「安全と確認されました」という一文だけになります。その裏にある「現時点で重大なリスクは見当たらない」という条件付きの言い回しは、いつのまにか省略されてしまいます。あとから新しい研究結果が出たときに「前は安全と言っていたのに」と感じる人が出てくるのは、ある意味で自然な反応といえます。科学の言葉と、行政や規制が使う言葉のあいだに、もともと翻訳しきれない部分があるという話です。

 

対立を煽った方が得をする仕組み

この土台の上に、もうひとつの力が重なります。報道機関にとって「専門家の九割が同意している」という記事は、内容としては正確でも、ニュースとしての目新しさは薄くなります。一方で「専門家のあいだでも意見が分かれている」という構図は、対立を見せられるぶん関心を引きやすく、クリックや視聴のされやすさにつながりやすいようです。

気候科学の分野でも、同じ統計データを引用しながら、政策の緊急性についての評価が分かれる論者が並んで取り上げられる場面が見られます。こうした少数派の異論が、実際の合意の大きさ以上に目立って扱われる傾向があるという指摘もあります。政治の側にも似た事情があります。選挙という数年単位のサイクルで動く政治家にとって、数十年かけて積み上がる科学的な合意よりも、今この瞬間の有権者の不安に応えるほうが、現実的な選択になりやすい場面が多いものです。専門家の合意と、メディアや政治が見せたがる構図とのあいだに、もうひとつのズレが生まれていく形になります。

 

わかりやすく説明するだけでは埋まらない

ここまでの話を踏まえると、「もっとわかりやすく説明しよう」という対策が、なぜ思ったほど効果を出しにくいのかが見えてきます。説明を工夫しても、確率を二択に圧縮せざるを得ない規制の仕組みそのものは変わりませんし、対立を見せたほうが得をするメディアの構造も変わらないままです。説明の量を増やすことは大切ですが、それだけでギャップが解消されると思うと、肩透かしを食らうことになりかねません。

本当に効果を持つのは、科学的な不確実性をある程度保ったまま意思決定できるような規制の設計を考えることや、対立を煽る記事よりも合意の度合いを丁寧に伝える報道を評価する仕組みをつくることだと考えられます。たとえば「専門家の何割が同意しているか」という数字を見出しに入れるだけでも、読み手の受け取り方は変わってくるかもしれません。

 

それでも諦めなくていい理由

このように書くと、構造の問題だから個人にできることは何もない、という気持ちになるかもしれませんが、そう悲観する必要はないように思います。報道を見るときに「これは合意のうちの何割を占める意見なのか」と一歩立ち止まって考えるだけでも、対立構図に振り回されにくくなります。規制や政策をつくる側も、近年は不確実性をそのまま市民に伝える発信の仕方を試みる動きが出てきており、状況は少しずつ変わりつつあるようです。

科学的コンセンサスと世論のギャップは、誰か一人の努力で簡単に埋まるものではありませんが、構造を理解した人が一人でも増えれば、対立を煽る情報に流されにくい土壌が育っていくはずです。遠い話のように感じるかもしれませんが、日々のニュースの読み方を少し変えるだけでも、その土壌づくりに参加することができるのではないでしょうか。

カテゴリ
[技術者向] 製造業・ものづくり

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