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「自己責任」は誰が広め、誰が守っているのか——福祉を拒む日本社会の設計図

努力が報われた時代が残した、歪んだ遺産

日本で自己責任論がこれほど深く根付いた背景には、高度経済成長期という特別な時代の体験があります。1955年から1973年にかけての18年間、日本のGDP成長率は年平均約10%を記録し、多くの人が「懸命に働けば生活は豊かになる」という実感を手に入れました。問題は、その成功体験がすべて個人の努力に帰属されたことでした。

実際には、朝鮮戦争による特需、安価な石油エネルギー、アメリカ市場への輸出拡大、政府主導の産業政策という外部条件が重なった結果の高成長でした。しかし「時代に恵まれた」より「自分が頑張ったから」という物語のほうが、人間の自尊心にはずっと心地よく収まります。心理学でいう「内的帰属バイアス」が好条件の時代と重なったとき、「努力すれば必ず報われる」という神話が社会全体に広まっていきました。

この神話の恐ろしさは、自動的に逆の命題を生み出すところにあります。「努力が報われる」が真であれば、「報われない者は努力が足りない」も真になる。バブル崩壊後の1990年代以降、雇用の流動化と非正規労働の拡大によって構造的な格差が生まれても、この因果関係の枠組みだけが生き残りました。2003年には完全失業率がバブル後最高の5.5%を記録しましたが、社会の語彙はそれを「フリーター・ニートの自己責任」と処理しました。構造の失敗を個人の失敗に読み替える装置として、自己責任論は静かに、しかし確実に機能し始めていたといえます。

 
「自助・共助・公助」という言葉の裏側

自己責任論が個人の価値観にとどまらず、政策の言語として制度化されたのが2001年の小泉政権以降です。「自助・共助・公助」という序列は、一見すると相互扶助の美しい哲学に見えます。しかしその実態は、社会保障への財政支出を削減する際の正当化装置として機能してきました。「まず自分でやれ、次に家族や地域でやれ、最後にだけ国が出る」という順番を公式化することで、福祉を求める声を「順番を無視した甘え」として退けることが可能になります。

この構造で利益を得たのは誰でしょうか。財政支出の抑制は国債残高を圧縮したい財務省の利害と一致し、規制緩和と人件費の圧縮は労働コストを下げたい経済界の利害と一致します。「自己責任で頑張れ」というメッセージは、低賃金・不安定雇用を「本人の選択」として免責したい雇用側にとって都合のよい言説でした。実際、非正規雇用比率は1990年代から2000年代にかけて急増し、2003年には雇用者全体の30%を超えました。しかし「非正規を選んだのは自分だ」という語り口によって、それを生み出した制度設計への批判は分散し続けてきた面があります。

メディアもこの構造と無縁ではありません。2012年の生活保護バッシング報道は、受給者個人を「不正受給者」として可視化することで、制度そのものへの批判的な検討を後景に追いやりました。そのとき画面に映らなかったのは、「なぜ生活保護の捕捉率が20〜30%しかないのか」という問いです。この数字を言い換えると、生活保護を受ける資格がある人のうち、70〜80人は一切受給できていないことになります。これは制度の失敗というより、そうなるように設計されてきた結果だと見ることもできるでしょう。

 
スティグマは「自然に生まれた」わけではない

「生活保護を申請するのは恥だ」という感覚を多くの人が持つとき、それは文化の自然な産物ではありません。スティグマは社会的に生産され、維持されるものです。その経路をたどると、学校教育・メディア・政治言語という三つのチャネルが連動して機能していることが見えてきます。

日本の道徳教育は長く「勤勉」「自立」「迷惑をかけない」を美徳として教えてきました。文部科学省の学習指導要領には「自律・自立」という概念が繰り返し登場しますが、「社会的支援を受ける権利」はほぼ登場しません。権利として教えられないものは、大人になっても権利として行使しにくいものです。NPO法人ほっとプラスの調査では、生活保護の申請をためらった理由として「世間体」を挙げた人が50%を超えており、その感覚は幼少期からの教育によって内面化されたものといえるでしょう。

メディアが生活困窮者を「自業自得」として描くとき、その報道は「同じ立場になったら恥ずかしい」という感情を視聴者に植えつけます。人は「自分はああならない」と思いたいがゆえに、「あの人たちは特別に怠けた人だ」という解釈を強化します。これは認知的不協和を解消しようとする心理的なメカニズムであり、支援制度への共感ではなく反感が育まれる土壌になります。そこに「自助努力が大切」という政治家の言葉が加わると、「支援を求めることへの抵抗感」は個人の内側でさらに強固に定着していきます。

 
制度を作っても、届かなければ意味がない

2020年代に入り、日本の社会保障制度は少しずつ拡充されています。子ども家庭庁の設立、ヤングケアラー支援の強化、こども食堂の全国展開(2023年時点で9,131か所)は、制度の空白を埋める試みとして一定の意義があります。しかしOECDのデータによれば、日本の社会支出のGDP比は2020年時点で24.8%と、フランスの31.2%、ドイツの30.0%を依然として下回っています。制度の数が増えても、使われなければ存在しないも同然です。

デンマークでは生活保護の捕捉率が80〜100%に達しますが、その背景には社会保障を「納税者への配当」として位置づける国民的な合意があります。高い税を払うことと、必要なときに支援を受けることが対の権利として理解されており、受給することへのスティグマが形成されにくい土台があります。これは制度設計の差であると同時に、「助けを求めることは正当な権利行使だ」という教育と言語の差でもあります。

日本で同様の変化を起こすには、制度改革と並行して文化そのものを変える必要があります。学校で「権利としての社会保障」を教えること、メディアが困窮者を「個人の失敗例」ではなく「構造の被害者」として描くこと、政治言語から「自助が先」という序列を取り除くこと。この流れが重なり合うことで、はじめて制度は必要な人に届くものになるでしょう。

自己責任論の本質は、個人の価値観の問題ではなく、再分配を求める声を分断し抑制する社会的な装置です。困窮を「自分のせい」と感じさせることができれば、人は連帯せず、政治的な要求も生まれません。誰がどんな構造のなかで困難に陥っているかを可視化し、その原因を社会の側に問い直す言葉を持つことが、福祉政策を実質的に前進させるための起点になると考えられます。

カテゴリ
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