言葉が秩序を生む、敬語と日本社会の深層を読む

日本語の敬語を、礼儀正しさの表現だと思っている方は多いと思います。ただ礼儀というものは、本来であれば話す側と聞く側の両方が気持ちよくなるはずのものです。実際の敬語は、使う側だけが言葉選びの手間や緊張を負って、使われる側はほとんど何も払わない、けっこう一方通行な仕組みになっています。

文化庁が行っている国語に関する世論調査を見ると、目上の人と話すときに敬語を使う人は八割を超え、社会生活を送るうえで敬語を使いたいと答えた人は九割を超えています。気になるのはこの九割の中身で、必要だから使いたいという積極的な回答だけでなく、使わざるを得ないから使いたいという回答もかなりの割合を占めています。礼儀が浸透しているというより、ある種の圧力が社会全体に広がっている、その表れに近いように思われます。

 

言葉を発するたびに立場を申告させられる仕組み

なぜこの圧力がなくならないのか、その答えは敬語の構造そのものに隠れているように感じます。日本語という言語は、文を完成させる前に、相手が自分より立場が上か下かをある程度確定させなければならない作りになっています。フランス語のtuとvousのような二択とは違い、日本語には尊敬語、謙譲語、丁寧語という三つの方向があり、一文話すごとにこの関係性を選び直すことになります。

これは礼儀正しさを選んでいるというより、文法によって関係性の申告を強制されている状態だといえます。黙っていれば何も伝わりませんが、ひとたび口を開いた瞬間、自分がどの立場にいるかを相手に開示してしまう。日本語を話すという行為そのものが、社会的な立場を自己申告する行為になっているように見えます。

 

「敬語はもう使わなくていい」と言える人の正体

ここで一つ、調査結果から見えてくる気になる矛盾に触れておきたいと思います。学歴や社会的な地位が上がるほど、敬語を厳格に使うべきだという意識が薄れる傾向があるという研究結果があります。これだけ見ると敬語という仕組みが少しずつ緩んできているように感じるかもしれません。ただ実際はその逆かもしれないと思っています。

地位の高い人が「敬語なんて使わなくていい」と余裕を持って言えること自体、その人が敬語を使われる側に立っている証拠になっているからです。一方で地位が下の人にはこの余裕がありません。敬語を崩せば礼儀を知らない人だと見なされ、丁寧に使えば自分から立場の低さを毎回申告することになる。どちらを選んでも、下の立場の人はこの構造から出られません。
敬語が緩んでいるように見える現象は、階層がなくなったわけではなく、上の立場にいる人の余裕がより目立つようになっただけ、というのが実態に近いのではないでしょうか。

 

なぜこの仕組みは誰にも壊されないのか

この仕組みがなかなか解体されない理由は、誰かが明確に得をしているようには見えない点にあるように思います。地位の高い人は敬語を強制しているつもりはなく、ただ自然に受け取っているだけです。地位の低い人も誰かに強要されたというより、組織の中でうまくやっていくために自分から選んでいるように見えます。
誰が悪いのかがはっきりしない仕組みは、誰にも壊す責任が生まれないため、長く残りやすいという面があります。明治時代に身分制度が法律上はなくなった後も敬語が残ったことや、今も学校教育や会社の研修で敬語が教えられ続けていることも、この仕組みを支えているのが特定の個人ではなく、教育や組織そのものだからだと考えられます。

私たちは敬語を覚えるとき、礼儀を学んでいるつもりでも、実際には自分がどの立場に置かれる人間なのかを学ばされているのかもしれません。そのことに一度気づくと、敬語を使うかどうかを初めて自分の意思で選べるようになるように感じます。これからの時代、敬語がすっかりなくなることはなくても、立場を強制する道具としてではなく、必要な場面で選び取る一つの手段として、その役割が少しずつ変わっていくと見込まれます。

カテゴリ
学問・教育

関連記事

関連する質問