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テストの点数と知性はどこまで一致するのか――多様な知性と教育評価

子どもの頃に抱いた、あの違和感の正体

小学生の頃、クラスにひとりはいなかったでしょうか。テストはいつも満点なのに、休み時間の遊びのルールを思いついたり、喧嘩の仲裁をさらりとこなしたりするのは、どこか別の子だったという記憶が。多くの人がぼんやりと感じてきたその「ずれ」は、気のせいでも嫉妬でもなく、教育の評価制度が長年かかえてきた構造的な問題と地続きになっています。

「勉強ができる」とは、授業で教わった内容を正確に記憶し、決められた形式で再現できる能力のことを指します。これはこれで立派なスキルですが、「頭がいい」という言葉が本来意味するものとは、少し違います。初めて直面する問題に対して筋道を立てて考えたり、異なる知識を組み合わせて別の何かを生み出したり、相手の気持ちを読んで場を動かしたりする力。そういった「知性の柔軟さ」は、テストの点数にはなかなか現れてきません。アメリカの心理学者ハワード・ガードナーは1983年に、人間の知性は言語や論理数学だけでなく、音楽・身体運動・対人関係・内省など少なくとも8つの領域に分かれていると提唱しました。学校のテストが測るのは、そのうちのせいぜい2領域にすぎません。残りの6つは、成績表には映らないまま育っていきます。

偏差値は「知性の地図」ではなく「レースの順位表」だった

日本で特に根強いのが、偏差値を知性の指標として扱う習慣です。偏差値はもともと、ある集団のなかで自分がどの位置にいるかを示す統計上の数値です。受験という限定されたレースにおける順位表としては機能しますが、それ以上のものではありません。「偏差値が高い=頭がいい」という図式は、テストの得意な子が知性も豊かだという前提を無意識に敷いていて、そこに大きな飛躍があります。

IQ(知能指数)についても同じことがいえます。IQテストをそもそも開発したフランスの心理学者アルフレッド・ビネーの目的は、学校生活に困難を抱える子どもを早期に発見して支援することでした。知性を序列化するためのツールではなかったわけです。それがいつの間にか「頭のよさの総合点」として扱われるようになり、採用や進学の判断材料にまで使われるようになりました。心理学者のロバート・スタンバーグはこの点を批判し、知性には分析的・創造的・実践的という三つの側面があり、従来のIQテストが捉えているのは分析的な部分だけだと指摘しています。

実際のデータも、この見方を裏付けています。アメリカの長期追跡研究では、IQや大学の成績(GPA)よりも「誠実性」や「感情的な安定性」といった性格特性のほうが、キャリア上の成功をより強く予測するという結果が繰り返し出ています。つまり、社会で力を発揮できるかどうかは、テストの点数よりも、粘り強さや自己理解の深さに左右される部分が大きいといえます。

「頭がいいね」のひと言が、子どもの挑戦心を奪っていた

評価のされ方は、子どもの学び方そのものを変えてしまいます。スタンフォード大学のキャロル・ドゥエック教授が2007年に発表した研究は、この問題を鮮やかに示しました。同じ成績の子どもたちを二つのグループに分け、一方には「頭がいいね」、もう一方には「よく頑張ったね」と声をかけます。その後、難しい問題と簡単な問題のどちらを選ぶかを確認すると、「頭がいい」と言われたグループは失敗を恐れて簡単な問題を選ぶ傾向が強く出ました。自分の「頭のよさ」というレッテルを守るために、挑戦を避けるようになってしまったわけです。一方、努力を認められたグループは難しい問題を積極的に選び、その後の成績の伸びも大きかったという結果が出ています。

「あなたは頭がいい」という評価は、一見すると褒め言葉ですが、裏返せば「失敗したら頭が悪くなる」というプレッシャーを子どもに与えます。成績で人を序列化する評価制度は、子どもが「賢く見せること」を優先して「本当に考えること」を後回しにする環境をつくりやすくなります。日本でも文部科学省は2020年度の学習指導要領の改訂で「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」という三観点での評価を導入しましたが、現場の教師からは、限られた授業時間のなかでこれを公平に評価することへの負荷が大きいという声が継続して上がっています。制度の枠組みを変えることと、実際の教室で評価の質を高めることは、別の課題として地道に取り組む必要があります。

「何を測るか」の前に「何のために測るか」を問い直す

評価とはそもそも、何のためにあるのでしょう。子どもがどこで躓いているかを把握し、どんな学び方が合っているかを見つけ、次の一歩を踏み出す手助けをするためのもの、というのが本来の姿のはずです。しかし実際には、進学や就職のための選抜ツールとしての役割が前面に出てきたことで、評価は子どもを育てる道具から、子どもを並べて比べる装置へと変わってきました。その結果、評価に映りやすい能力だけが「頭のよさ」とみなされ、映りにくい能力は存在しないも同然に扱われてきたといえます。

ここで大切なのは、「勉強ができる子」を否定することではありません。記憶力や再現力は確かな能力であり、それを磨いてきた子どもの努力は本物です。問題は、その能力だけを「知性の全体」と見なしてきた評価の設計にあります。測定しやすいものだけを測り続けることで、見えにくい知性が育つ余地を狭めてきた可能性があります。どんな子どもも、テストには現れない何かを必ず持っています。それを引き出す評価の形を模索することが、教育に関わるすべての人に求められていることではないかと感じます。「頭のよさ」の定義を更新することは、子どもたちの可能性の定義を更新することと、同じ意味を持っているはずです。

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学問・教育

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