功利主義と義務論から考える、ビジネス倫理に正解がない理由
利益が大きければ、その判断は正しいのか
企業の意思決定は、売上や利益だけを見て決められるほど単純ではありません。従業員、顧客、取引先、株主など、ひとつの判断が多くの立場に影響するからです。そこでビジネス倫理を考える手がかりになるのが「功利主義」です。功利主義は、行動によって生まれる結果を重視し、できるだけ多くの人に利益や幸福をもたらす選択を評価する考え方です。ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルによって発展し、現在の企業活動で使われる費用対効果やリスクとリターンの比較にも通じる部分があります。限られた人材や資金をどこに振り向けるかを考える経営では、比較的理解しやすい考え方といえるでしょう。
従業員1,000人の会社が深刻な赤字に陥り、100人を削減すれば残る900人の雇用と事業を維持できる状況を考えてみます。功利主義では、100人が受ける損失だけでなく、900人の雇用、取引先との関係、顧客へのサービス継続まで含めて判断します。会社そのものが倒産し、1,000人全員が職を失う可能性が高いなら、100人の削減を選ぶことには一定の合理性があると考えられます。ただし、900人が受ける利益と100人が失う生活基盤を、単純な人数だけで比較することはできません。「多くの人が助かる」という理由だけで少数者の犠牲まで認めてしまえば、個人の権利が軽く扱われる危険も残ります。
結果が良くても許されない行動はある
功利主義とは異なる角度から道徳を考えるのが「義務論」です。代表的な思想家であるイマヌエル・カントは、結果だけではなく、その行為が守るべき道徳的な原則に沿っているかを重視しました。よく知られているのが、人を目的達成のためだけの手段として扱ってはならないという考え方です。企業が大きな利益を得られるとしても、顧客をだます、従業員を不当に扱う、取引先との約束を意図的に破るといった行為まで、好業績を理由に正当化することは難しいでしょう。人を一人の人格として尊重するという考え方は、現在のビジネス倫理にも深くつながっています。
人員削減の例でも、義務論から見ると焦点が変わります。会社を守るために100人の削減が避けられないとしても、対象者に十分な説明をせず突然解雇したり、経営陣に都合の悪い人だけを選んだりすれば、公平な判断とは言いにくくなります。削減人数を可能な限り抑え、基準を明らかにし、再就職支援まで用意すれば、同じ人員削減でも受け止められ方は変わるでしょう。功利主義が「その判断によって何が起こるか」を見るのに対し、義務論は「その方法を当事者にも説明できるか」を問いかけます。この違いが、ビジネスにおける道徳や倫理を難しくしているともいえます。
現実の経営では、どちらを選んでも何かを失う
実際のビジネスでは、功利主義と義務論のどちらか一方を選べば問題が解決するとは限りません。顧客の購買履歴や閲覧履歴をAIで分析すれば、その人に合った商品を提案しやすくなり、利用者の利便性向上や企業の収益拡大が期待されます。功利主義から見れば、多くの顧客が便利になり、企業にも利益が生まれるなら、データ活用には一定の合理性があるでしょう。ところが、本人が十分に理解していない用途まで情報を使えば、プライバシーや自己決定を尊重しているとは言い切れません。企業全体で利益が出ても、その裏側で特定の人だけがリスクを背負っているなら、倫理的な問題は残ると考えられます。
経営判断を難しくするのは、将来の結果を完全には予測できないことです。100人を削減すれば900人を守れると判断しても、その後も業績が戻らず、追加の削減が必要になるかもしれません。AIに大きな投資を行えば生産性向上が見込まれるとしても、期待した成果が得られる保証はないでしょう。結果を重視するほど、その結果をどこまで正確に読めるのかという問題が生まれます。一方、決められた原則だけを守ろうとすれば、事業の存続が危ぶまれる場面で柔軟な対応が難しくなる可能性もあります。どちらを選んでも別の価値を失うことがあり、その不確実さまで含めて判断する必要があると思われます。
誰が利益を得て、誰が負担するのかを見る
企業倫理は、経営理念に掲げる言葉だけの問題ではありません。Ethics & Compliance InitiativeのGlobal Business Ethics Surveyによると、2022年に職場で何らかの不正行為を目撃した従業員の世界中央値は65%で、2020年の60%から5ポイント上昇しました。職場の倫理基準や法令に反する行動を求められるプレッシャーを感じた割合も世界中央値で28%に達しています。不正を報告した従業員が報復を経験するケースも確認されており、道徳や倫理をめぐる問題が、日常の業務や組織文化と深く結びついていることが分かります。
功利主義と義務論をビジネスに生かすなら、利益の大きさだけでなく、その利益を得る人と負担を引き受ける人が誰なのかまで見る必要があります。会社全体では大きな利益が出ていても、発言力の弱い従業員や顧客だけに負担が集中しているなら、その判断には見直す余地があると考えられます。経営には結果を比較する視点が欠かせませんが、「利益が出ても採用してはいけない方法」を決めておくことも必要でしょう。その判断を当事者や社会に説明できるのか、立場が逆でも同じ基準を受け入れられるのか。利益の数字だけでは見えない部分まで確かめる姿勢が、道徳と経営を結びつけるビジネス倫理につながるのではないでしょうか。
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