• トップ
  • 社会
  • Mr.でもMs.でもない——「Mx.」という敬称が映す、英語圏のジェンダー観の変化

Mr.でもMs.でもない——「Mx.」という敬称が映す、英語圏のジェンダー観の変化

英語で手紙を書くとき、宛名の前に「Mr.」や「Ms.」を付けるのは長らく当たり前のことでした。男性には「Mr.」、女性には「Ms.」(あるいは既婚女性には「Mrs.」)——この慣習は20世紀を通じて定着し、多くの人が深く考えることなく使い続けてきました。ところが2010年代以降、英語圏ではこの二択に収まらない人々の声が社会に届き始め、「Mx.(ミックス)」という第三の敬称が急速に広まっています。

 

「Mx.」はいつ、どこから生まれたのか

「Mx.」という表記が初めて文書に現れたのは1977年のことで、アメリカの雑誌『Single Parent』誌上に記録が残っています。ただ当時はごく一部の人が使うだけで、広く知られることはありませんでした。この敬称が一気に注目を集めたのは2015年、イギリスの『オックスフォード英語辞典(OED)』が正式に収録したときです。辞典はその意味を「性別を特定しない、または性別の二元的な分類を望まない人が使う敬称」と定義しました。辞書に載るということは、その言葉が社会に「存在する」と認められたことを意味します。

その後、変化は行政や企業にも広がっていきました。同じ2015年に英国の大手銀行RBSグループや英国郵便局(Royal Mail)が顧客フォームに「Mx.」の選択肢を追加し、2021年には英国のパスポートや公文書でも使用が認められるようになりました。言葉が辞書に載り、公的な書類に記され、日常の場面で使われるようになる——この流れは、言語が単なる記号ではなく社会の仕組みそのものだということを、改めて感じさせてくれます。

 

「自分を表す言葉がない」という経験

「Mx.」が必要とされた背景には、ノンバイナリー(non-binary)という概念への理解の広まりがあります。ノンバイナリーとは、自分の性自認が「男性」でも「女性」でもない、あるいはどちらにも完全には当てはまらないと感じる状態を指します。

どれくらいの人がそう感じているかというと、米国の調査機関ピュー・リサーチセンターが2022年に発表したデータでは、アメリカの成人の約5.1%がLGBTQと自認しており、そのうち約11%——全体のおよそ0.6%——がノンバイナリーと回答しています。英国国家統計局(ONS)の2021年国勢調査でも、イングランドとウェールズで26万2,000人以上が「性別はどちらでもない」と答えました。数字だけ見ると少なく感じるかもしれませんが、当事者にとって、毎日の書類や呼びかけの中で自分に合わない言葉を使い続けることは、小さくても確かな負担になります。

この点については、心理学の研究でも裏付けがあります。2021年にカナダで行われた調査では、自分のアイデンティティに合った代名詞や敬称で呼ばれているトランスジェンダー・ノンバイナリーの若者は、そうでない若者と比べてうつや不安のリスクが有意に低かったと報告されています。「Mx.」は表記の話であると同時に、人が自分らしくいられるかどうかという、尊厳に関わる問題といえるでしょう。

 

企業や行政が「Mx.」を取り入れ始めた理由

言葉の変化はふつう、文化の変化よりも少し遅れてやってきます。それでも「Mx.」の普及は、企業と行政の両面で比較的速く進んでいます。英国の通信会社BTグループや保険会社アビバは2010年代半ばまでに顧客データベースへの追加を済ませており、米国でも複数の州が運転免許証の性別欄に「X(どちらでもない)」を設けるのにあわせ、公文書上の敬称として「Mx.」を受け付けるようになっています。

こうした動きを後押ししているのが、若い世代のジェンダー観の変化です。米ギャラップ社の調査によると、Z世代(1997〜2012年生まれ)の約7.6%がLGBTQと自認しており、ミレニアル世代の4.2%、X世代の2.6%と比べて世代を追うごとに割合が高くなっています。顧客や従業員の多様性に丁寧に向き合える組織であることが、ブランドへの信頼や働く場の魅力にもつながると考える企業が増えていて、その実践のひとつとして「Mx.」の導入が選ばれています。

 

日本語への問いかけ——言語構造の違いと共通する課題

「Mx.」の話を聞いて、「日本語には『さん』があるから関係ない」と感じた方もいるかもしれません。確かに「さん」は性別を問わず使える便利な敬称です。ただ、日本語にも別の形でジェンダーが組み込まれています。「俺」「僕」「私」といった一人称には性別のニュアンスが伴いますし、書類上の「男・女」の二択、「男子・女子」という区分けも、英語圏の敬称問題と構造的によく似た課題を抱えています。

日本でも少しずつ変化は起きていて、2023年時点で全国約60の自治体が住民票や申請書の性別欄を任意にしたり、選択肢を増やしたりする見直しを進めています。「Mx.」というたった2文字の話は、英語圏だけに限らず、言葉が人のアイデンティティとどれほど深く結びついているかを、あらためて考えさせてくれます。誰もが自分をありのままに表せる言葉の選択肢があること——その積み重ねが、より多くの人にとって居心地のよい社会につながっていくでしょう。

カテゴリ
社会

関連記事

関連する質問