スクリーンの上の平等、スクリーンの裏の現実――メディアと女性表象の深層
画面の上では増えた女性たち、その裏側では
テレビのニュース番組を思い浮かべてみてください。数年前と比べると、女性キャスターの姿は確実に増えました。広告の世界でも、家事をこなすだけの主婦像は影を潜め、スポーツに打ち込む女性やキャリアを積む女性のイメージが当たり前になりつつあります。「メディアはようやく変わった」という空気が漂う中で、ただひとつ確認しておきたいことがあります。その変化は、女性が「映される側」であることを変えたのか、それとも「映し方を決める側」に女性が加わることを意味するのか、という点です。
この二つはまったく別の話です。内閣府男女共同参画局の調査によれば、2023年における新聞・通信社等の全従業員に占める女性の割合は23.0%、民間放送で27.2%、NHKで22.9%となっており、数字の上では確かに前進しています。ところが同じ調査の別データを見ると、NHKの管理職に占める女性の割合は2023年時点でわずか12.0%にとどまっています。従業員全体の女性比率と、意思決定を担う管理職の女性比率のあいだには、倍近い開きがある状況です。この溝こそが、「多様性の演出」と「権力構造の変革」を分ける境界線でしょう。
誰も語らない「なぜ変わらないのか」という問い
権力構造が変わらない理由を、この手の記事は意外なほど掘り下げません。数字を並べて「まだ少ない」と指摘するところで止まってしまいます。でも本当に知りたいのは、なぜ何十年も経った今も同じ構造が続いているのか、という部分のはずです。
背景には、少なくとも三つの力学が絡み合っています。一つ目は経済的な合理性の問題です。広告業界では長らく、女性を「商品を買う消費者」として描くほうが費用対効果が高いとされてきました。女性を主体として描くより、対象として描くほうが収益構造に合致するという判断が、業界の慣行として定着してきた側面があります。二つ目は、採用と昇進の場で起きる「同質性の再生産」です。意思決定層が均質な集団であれば、次の世代も同質な人材が選ばれやすい。この連鎖は悪意ではなく、無意識の選好として機能するため、外からは見えにくく、内からも気づきにくい構造です。そして三つ目が、最も厄介な逆説です。画面の上で女性が「多様に映されている」という事実自体が、変革を求める声を和らげる機能を持ってしまうことがあります。変化しているように見えるほど、変化を求める圧力は下がります。この三つが重なることで、表象は変わっても構造は変わらないという状態が長期にわたって維持されてきたと言えます。
日本マスコミ文化情報労組会議(MIC)の調査によれば、新聞業界の女性役員比率はわずか3.1%で、多くの企業では女性役員がゼロという現実があります。テレビ業界でも、在京テレビ局の中には女性役員が一人もいない企業が複数存在しています。報道の最前線でカメラの前に立つ女性が増えても、何をニュースとして取り上げ、どう切り取るかを最終的に判断する編集長やデスクのポジションは、依然として男性が占め続けています。「語り手」が誰かによって、同じ出来事でも何が強調され、何が省かれるかは変わります。女性が被害者として語られる事件の報道で、被害者の外見や服装が強調される一方、加害者の権力的背景が後景に退く傾向が長く批判されてきましたが、それは誰が映し方を決めているかという構造と、切り離せない話でしょう。
「増えた」という事実が「足りない」という現実を隠す
ここに、多様性の演出が持つ厄介な側面があります。画面の上で女性が多様に映されているという事実が、女性が社会的に代表されているという印象を生み出してしまうことです。その印象が広まるほど、依然として続く構造的な不平等は見えにくくなります。
政治報道を見てみると、2024年11月時点での衆議院の女性議員比率は15.7%で、186か国中139位という状況です。メディアがこの数字を「女性議員が増えている」という文脈で報じるとき、国際社会における日本の位置はフレームの外に置かれがちです。企業の世界でも、プライム市場上場企業における女性役員の割合は2022年の11.4%から2023年には13.4%に増加しましたが、日本を除くG7諸国やOECD諸国の平均とのギャップは依然として大きい状況が続いています。「増えた」という事実と「まだ足りない」という事実はどちらも本当ですが、前者だけが切り取られるとき、それは報道ではなく演出に近づいていきます。
筑波大学の研究が示すように、テレビCMにおける女性や男性の性ステレオタイプ的な描写は、女性に対する伝統的な偏見を助長するとされてきました。「強い女性」「自立した女性」というイメージに置き換わっても、その像が誰の視点で設計され、誰の購買意欲に向けて商品化されているかという問いを立てると、変化の本質的な性格が問われてきます。
変革に必要なのは、表象の先にある問いかけ
多様な女性像をメディアで増やすことには、確かな力があります。男女の役割について非典型的な内容を描いたテレビ広告を視聴した女子学生が、典型的な内容の広告を視聴した場合よりも独立的な判断や自信を示したという実証研究も存在しており、表象が意識に与える影響は小さくありません。だからこそ、表象の変化に安心してしまうことの危うさも、同時に意識しておく必要があります。
誰がカメラを回し、誰が記事を書き、誰が編集会議で最後の判断を下すのか。その「誰」が均質なままであれば、どれだけ画面の上の女性が多様に見えても、それは多様性の「消費」であって、多様性の「実現」とは言い切れません。視聴者や読者として私たちが問えることは、「誰が映っているか」だけでなく「誰が映し方を決めているか」という視点を持ち続けることでしょう。表象の変化を喜びながら、その変化を生み出す側の構造に目を向けることを手放さない。それが、メディアと社会のジェンダーを考えるうえで、今もっとも必要な姿勢ではないかと感じます。
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