歩数・睡眠・ストレス値がスコアに変わるとき——ウェアラブル時代のデータ主権を考える
スマートフォンの通知をオフにして、ようやく眠れた夜でも、腕のデバイスだけは起きています。心拍数、呼吸のリズム、体温の微妙な変化——あなたが眠っているあいだも、データは刻まれ続けます。そして翌朝、あなたが睡眠スコアを確認するころには、その記録はすでにクラウドのどこかへ届いています。
世界でスマートウォッチを使う人は約12億人。ウェアラブルデバイス市場は2024年の約1,939億ドルから2033年には約9,071億ドルへ、年率18.7%で拡大すると予測されています。日本でも「ヘルスケアDX」が国策として動き出し、生体データの活用は医療・職場・日常のあちこちで当たり前の話として語られるようになりました。
ここで一度、考えてみてほしいのですが、そのデータは「あなたのもの」なのでしょうか。アプリをインストールした日、あなたは「同意する」をタップしました。でも、あの規約を最後まで読んだ人は、ほとんどいないはずです。実は多くの利用規約には、収集したデータをグループ会社や提携先と共有できると書かれています。しかもその文章は、意図的に長く、曖昧な言葉で書かれています。法的には「同意した」ことになっていても、「理解した」とは言えない状態で、睡眠の記録や心拍のデータは、すでに誰かの手に渡っている可能性があります。
医療現場が欲しがるデータ、その価値と課題
年に一度の健康診断には、根本的な限界があります。血圧も、血糖値も、あの日の緊張や前夜の暴食に左右される「一瞬の値」に過ぎません。医師だってそれを知っているから、「最近どうですか?」と聞くしかない。でもウェアラブルが記録するのは、寝苦しかった火曜の夜も、残業続きで心拍が上がっていた木曜の夕方も含む「連続した現実」です。
2025年1月にJAMA Cardiology誌に掲載された研究では、AI搭載ウェアラブルが心房細動の初期兆候を95%以上の精度で検出できると報告されました。自覚症状が出る前に心臓の異変を捉えられるなら、医療が変わる可能性は本物です。しかし問題は、そのデータが「医療に使われる」だけでは終わらないという点にあります。
日本では、ウェアラブルが集めたデータは薬機法上の「医療機器」として審査を受けていないケースがほとんどで、医師が診断の根拠として使うには制度的な壁が残ります。精度を誰が保証するのか、データが原因でミスが起きたとき誰が責任を負うのか、何も決まっていません。「技術は動いているのに、ルールがない」という状態は、使う側にとって都合よく解釈される余地を、企業に与え続けています。
スコアが保険料を決める時代
住友生命の「Vitality」というプログラムがあります。ウェアラブルで記録した歩数や心拍数をもとにポイントが貯まり、健康的な行動を続ければ保険料が下がる仕組みです。表向きは「運動すれば得をする」という話ですが、別の角度から見ると景色が変わります。
介護で毎晩眠れない人は、睡眠スコアが下がります。持病で安静にしていなければならない人は、歩数が稼げません。仕事の性質上、ストレス値が高い状態が続く人もいます。「健康な行動をしている人が安くなる」というのは、裏を返せば「そうでない人は高くなる、あるいは弾かれる」ということです。保険はもともと、リスクを多くの人で分かち合うための仕組みのはずでした。それが生体データで精緻に管理されていくほど、「助けが必要な人ほど割に合わない」という逆転が起きていきます。
歩数が少ない、睡眠が乱れている、ストレス値が高い——こうした身体の状態が保険料の算定に組み込まれていく世界は、中国の「社会信用スコア」と批判される仕組みと、構造としては大きく変わりません。日本の個人情報保護法は健康情報を「要配慮個人情報」として扱い、共有には本人の同意が必要です。ただし、アプリ登録時に押したあの「同意する」が、その役割を果たしているというのが現在の建前になっています。
体調が悪い夜に届く広告は、偶然ではないかもしれない
睡眠が浅い夜が続いて、翌朝やけにエナジードリンクの広告が目に入った——そんな経験はないでしょうか。広告ビジネスの論理はシンプルで、「欲しいと感じている人に、欲しいと感じているタイミングで届ける」という精度を上げ続けることが、すべての出発点にあります。検索履歴、購買履歴、位置情報と、使えるデータを増やしてきた先に、生体データが見えています。
米国では実際に、医療系ウェブサイトの健康情報がメタ(旧Facebook)の広告システムに流れていたことが専門家の調査で明らかになり、大きな問題になりました。「病気の疑いがある人」「メンタルが落ちている人」がターゲットとして広告配信に使われていたわけです。メタはその後、センシティブな健康カテゴリーへのターゲティングを廃止したと発表していますが、データの流通経路は複雑なままで、問題の根は残っています。
ではあなたは今日から何ができるか。手始めに、今使っているアプリのプライバシーポリシーを開いて「第三者提供」という言葉を探してみてください。そこに書いてあることが、あなたのデータの行き先の答えです。日本の個人情報保護法のもとでは、自分のデータの開示や利用停止を事業者に請求する権利があります。「同意した覚えのない使われ方をされている」と感じたなら、泣き寝入りせずに声を上げる手段は存在します。
ウェアラブルデバイスを手放せとは言いません。便利だし、健康管理に役立っているのも事実です。ただ、今夜眠っているあいだも、そのデバイスはデータを生産し続けています。医療・保険・広告という三つの産業がそれぞれの利益のために同じデータを欲しがっている、その構造を知った上で腕に着けているのか、知らないまま着けているのかで、立場は大きく違ってきます。
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